M&A基礎知識
M&Aのデューデリジェンス準備|売り手が出す資料と直す順番
基本合意のあとに届くデューデリジェンスの資料依頼に、売り手が何をどこまで用意するかを整理します。財務・法務・労務・許認可の4領域で求められる資料、価格が下がりやすい簿外債務・株主名簿・未払残業の自己点検、着手する順番までをまとめました。
この記事の前提
- 想定読者
- 基本合意の前後にいて、買い手のデューデリジェンスに向けて何を準備すべきか分からない中小企業の経営者
- 読了後の状態
- DDで求められる資料の全体像をつかみ、今から直せるものと先に開示すべきものを自分で仕分けできる状態
基本合意書を交わすと、買い手側のアドバイザーから資料依頼のリストが届きます。項目は細かく分かれていて、提出期限も長くは取られません。日常の受注も支払いも止まらないなかで、何年も前の契約書の原本や、更新が止まったままの株主名簿を探し始めることになります。
デューデリジェンス(買収監査。以下DD)は、M&Aの工程のなかで売り手の作業負荷が最も高くなる場面です。しかもこの時点では独占交渉に入っていることが多く、他の買い手候補との交渉は止まっています。準備不足のまま突入すると、資料を探す時間が足りずに回答が遅れ、その遅れ自体が交渉材料になります。
厄介なのは、資料が出せないこと自体が不利に働く点です。買い手は分からない部分を安全側に見積もります。安全側とは買い手にとって安全という意味で、売り手から見れば減額です。
売り手ができる準備は、書類を揃えることと、説明が必要になる過去の処理を先に把握しておくことの2つに分かれます。この記事では、その2つを「何から手を付けるか」の順番で整理します。
買い手がDDで確かめているのは前提が正しいかどうか
買い手は基本合意までの間、売り手が出した決算書と口頭の説明を前提に、価格と条件を組み立てています。DDはその前提が事実かどうかを確かめる工程です。粗探しが目的ではなく、投資判断の根拠を自分の目で確認する作業だと捉えると、依頼される資料の意味が読み取りやすくなります。
この構造から、2つのことが導けます。
ひとつは、前提を裏づける資料ほど優先度が高いということです。決算書の数字そのものより、その数字が今後も繰り返し出るのかを示す資料が求められます。主要取引先ごとの売上推移や、価格改定の履歴がその例です。
もうひとつは、開示しなかった事実は消えないということです。買い手は譲渡後、その会社の帳簿を毎日見ることになります。DDで出さなかった問題が後から表に出た場合、最終契約に入れた表明保証に反したものとして、補償の話になります。隠しても支払いが後ろにずれるだけで、しかもその時点では価格交渉の余地がありません。DDの段階で開示していれば、影響額を交渉できたはずのものが、譲渡後は請求される側の立場になります。
出せないもの、都合の悪いものほど、自分から先に出すほうが条件は良くなりやすい。DD対応の基本方針はここに尽きます。
求められる資料は4つの領域に分かれる
依頼リストは長く見えますが、中身は4つの領域に整理できます。領域ごとに、買い手が何を確かめようとしていて、出せないときにどう扱われるのかを並べると次のようになります。
| 領域 | 買い手が確かめたいこと | 代表的な依頼資料 | 出せないときの扱われ方 |
|---|---|---|---|
| 財務・税務 | 決算書の数字が実態と合っているか、その利益は来期も出るのか | 決算書と申告書の一式、勘定科目内訳明細、月次試算表、取引先別の売上推移、借入金の返済予定表 | 実態収益力を保守的に見積もられ、価格の前提そのものが下がる |
| 法務 | 株式が誰のもので、確実に渡せるか。事業を縛る契約や係争はないか | 定款、登記事項証明書、株主名簿、株主総会・取締役会議事録、主要取引契約書、係争や行政指導の記録 | 権利関係を確定できないため、実行前提条件や補償条項で手当てされる |
| 労務 | 人件費が正しく計上されているか、遡って請求されうる負債はないか | 就業規則と賃金規程、賃金台帳、勤怠記録、36協定、社会保険の加入状況、雇用契約書 | 未払いの可能性を金額に置き換えて見積もられ、減額の根拠になりやすい |
| 事業・許認可 | 譲渡後もこの事業をそのまま続けられるか | 許認可・免許の写し、主要顧客との取引条件、外注先との取り決め、設備と賃貸借の一覧、システムやライセンスの契約 | 承継の可否が読めず、スキームの変更や条件付きの合意になる |
規模が小さい案件では、財務と法務に絞った簡易なDDになることもあります。逆に、従業員が多い会社や許認可で成り立っている会社では、労務と許認可の比重が上がります。自社がどこを重く見られるかは、何で利益を出しているかで決まります。
今から直せるものと、もう直せないものを分ける
準備の初期に必要なのは、リストを片端から潰すことではなく、仕分けです。
作業で解決できるものは、事実は問題ないのに書類が整っていない状態を指します。議事録が作られていない、契約書の原本が見当たらない、株主名簿が数年更新されていない、固定資産台帳と現物が合っていない。これらは時間をかければ直せます。DD開始前に着手すれば、そもそも指摘事項になりません。
もう直せないものは、すでに起きてしまった過去の事実です。残業代の未払いが発生している、設立時に名義を借りた株がある、社会保険の未加入期間がある、帳簿に載っていない保証をしている。これらは書類を整えても消えません。
後者に対して取るべき行動は、消すことではなく、金額を自分で把握して自分から説明することです。理由は2つあります。
第一に、影響額の議論の起点を自分側に置けます。買い手が独自に見積もった額は、前提の置き方によっては実態より大きく出ます。自社で計算した根拠を先に示せば、そこからの議論になります。
第二に、追加調査に発展しにくくなります。買い手が自力で見つけた問題は「他にもあるのではないか」という疑いを生み、調査範囲が広がります。売り手から開示された問題は、そこで範囲が閉じやすい。
価格に直結しやすい3つの論点は先に自己点検する
指摘が価格に跳ね返りやすいのは、金額に換算しやすく、譲渡後も買い手が引き継ぐ性質のものです。中小企業では次の3つに集中します。
簿外債務は「帳簿の外にある将来の支払い」から探す
簿外債務という言葉は範囲が広く、身構えるわりに手が動きません。将来お金を払う可能性があるのに貸借対照表に出ていないもの、と読み替えると点検できます。
- 退職金規程があるか。あるなら、全従業員が今日退職した場合の要支給額を計算する
- 他社の借入や取引に対する保証、および代表者が口頭で交わした取り決めがないか
- リース・割賦の残債、賃借物件の原状回復義務、撤去費用
- 係争、クレーム、納品物の不具合で未対応のもの
- 契約書に書かれていない返品・値引き・リベートの慣行
3と5は帳簿を見ても出てこないため、経理ではなく現場に聞く必要があります。長く続いている会社ほど、担当者の頭の中にしかない取り決めが残っています。
株主名簿は「今の持ち主」と「渡せる状態か」を確認する
株式譲渡では、原則として全株式を買い手に渡します。1株でも所在が分からない株主がいれば、そこで条件が付きます。
- 定款に株式の譲渡制限があるか、承認機関はどこか
- 株主名簿と、法人税申告書別表二の記載が一致しているか
- 設立時の名義株(名義だけ借りた株)が残っていないか
- 相続で持分が分かれ、面識のない相続人が株主になっていないか
- 過去の増資や譲渡で、議事録や譲渡承認の記録が残っているか
株式の集約に時間がかかると判断される場合、事業譲渡へのスキーム変更が検討されることもあります。手続きも税金も変わるため、その前提は株式譲渡と事業譲渡の違いで確認しておくと、提案されたときに判断できます。
労務は制度ではなく実際の運用を見られる
規程が整っていても、運用が違えば意味がありません。DDで確認されるのは運用のほうです。
- 固定残業代を採用している場合、金額と対応する時間数が明示され、超過分が精算されているか
- 労働時間の記録が自己申告のみになっていないか
- 管理監督者として扱っている役職の範囲が実態と合っているか
- 年次有給休暇の取得状況
- パート・アルバイトを含めた社会保険の加入漏れがないか
賃金請求権の消滅時効は、2026年8月時点では当分の間3年とする経過措置が置かれています。遡る期間が長いほど見積額は膨らむため、この扱いは影響が大きく、変更の可能性もあります。最新の取り扱いは厚生労働省の案内で確認するか、社会保険労務士に確認してください。
資料の出し方で、負荷と心証が変わる
同じ内容でも、出し方によってDDの進み方は変わります。
窓口を1人に決める。 社長が全ての依頼に直接答えると、本業が止まります。経理・総務の担当者を窓口にし、社長は判断が必要な項目だけ引き取る形にすると持ちこたえられます。
やりとりは書面で残す。 口頭で答えた内容は、後から食い違いが起きます。質問と回答を一覧で管理しておくと、最終契約の表明保証をつくる段階でも「何を開示したか」の証拠になります。
「無い」と「今は出せない」を区別する。 存在しない資料を「探しています」と答え続けると、隠していると受け取られます。作っていないものは作っていないと伝えるほうが、話が早く進みます。
社内で知る人を絞る。 DD対応で資料集めを頼む相手が増えるほど、話は漏れます。誰に何をどこまで伝えるかは、依頼する前に決めておきます。
着手する順番
準備は、時間がかかるものから始めます。所在を確認して集めるだけで済むものは短く終わりますが、突き合わせて中身を確かめる作業は日数がかかります。
- 決算書と申告書の直近3期分、その所在を確認する。顧問税理士に電子データで揃えてもらう
- 定款、登記事項証明書、株主名簿を並べ、記載が一致しているか確認する
- 労務の自己点検に着手する。勤怠記録と賃金台帳の突き合わせは、時間がかかるうえ外部の目が要る
- 簿外債務の洗い出しを、経理と現場の両方に対して行う
- 許認可の一覧と、主要契約に承継や支配権変更に関する条項があるかを確認する
- 集めた資料を1か所に集約し、目次を作る
3と4だけは、依頼リストが届いてから始めても間に合いません。M&Aを検討し始めた段階、つまり検討から成約までの流れでいう前半のうちに着手しておく領域です。
次にやること
DDの資料依頼が来る前に、着手すべきことは2つあります。
- 株主名簿・定款・登記事項証明書の3点を並べ、株式が今日全部渡せる状態かを確認する
- 退職金規程の有無と、勤怠記録の付け方を確認し、金額に換算できる論点を洗い出す
この2つが済んでいれば、買い手から指摘が出ても、影響額の議論を自分の数字から始められます。逆にこの2つがないままDDに入ると、指摘された事項が本当にその金額なのかを検証できず、提示された減額幅をそのまま受け入れるほかありません。
指摘が出たあと、その1件が価格や契約条件にどう変換されるのかはデューデリジェンスで問題が出たときの分岐で整理しています。準備段階でこの分岐を知っておくと、どの資料を先に整えるべきかの優先順位が付けやすくなります。